07/06/2026
興味や考え、感じ方の根本は、実は若い頃──
もっと言えば子供の頃と大差がないなって、
今年54歳を迎える今、よく思う。
興味で言うなら、一度心掴まれたものって、
もう忘れているように思えても、
今も確実に自分のどこかに残ってるもので
強弱はあれど、
不意に触れた時その感覚は確実に蘇る
その度に「ああ、自分の根っこは変わっていない」と気づく。
考え方、感じ方については、
確かに、三つ子の魂百まで、だ。
ただ、歳をとって、その性根に対しての主観と俯瞰の切り替えが出来るようになった。
「また性根が同じところで反応したな」と面白く思いながら、一方で、経験や社会的立場をフィルターにして、考えを整えて、然るべき形(例えば倫理的な形)に結論づける事ができるようになった。
これを、責任とか大人になったというんだろう。
だからかどうかは定かではないが、昔に比べて、パンに対していろんな意味でフラットになったと思う。
これは、飽きたとか、冷めた、とは違うものだ。
つまり、主観ではなく、俯瞰で眺められるようになったんだと思う。
それでも、人から見るとどうやらなかなかに情熱を持って接していると、感じて貰えるようだ。
自分では穏やかに向き合っているつもりでも、外からは「熱心だ」と映る。
そのズレが僕的にはなかなか興味深い。
もしかしたらそれは、ヘタに経験値が増えただけとはいえ、パンの技量の安定度が上がっているからかもしれない。
昔は全力でないとできなかったレベルのことが、長く携わる中で、繰り返し反芻する事で、自分の“自然体”に昇華されてきたからだと思う。
若い頃の方がピークの到達地点は高かった。だが、大きく波があった。
今はピークこそ若い頃には及ばないものの、平均的と安定度は優れている気がする。
かつては勢いで押し切らなければクリア出来なかった部分が、今は呼吸するようにできる。
とはいえ、本当の意味で、息をするようにパンを焼けるまでには、
まだまだ時間を重ねなければいけないのも事実。
それは、ギターにも、家族にも、暮らしに於いても同じ。
息をすることを特別とは思わないように、それらもいつか呼吸と同じ場所に落ち着くのかもしれない。
また、ひとつのことにのめり込む楽しさより、それぞれが並行して、程よい質と量で相互に熟成を促しながら進んでいくことに、今は面白みを感じる。
私はそれを相熟と呼んでいる。
その相熟こそが、今の私が感じている人生の充足感の理由だと思う。
パンがギターを深め、ギターが家族との時間を豊かにし、
家族との時間が食や生き方の感性を整え、
そのすべてがまたパンに戻ってくる。
そういう循環運動の中でこそ、自分は少しずつ人生の歩き方のヒントを学んでいるように思う。
昨今、世間一般には、自分への興味よりも人への興味の方が優っているように思える。
誰がどうしているとか、何が流行っているとか、どう見えるかとか。
自分が性根でどう感じているかよりも、
“他者からどう見えるか”を優先してしまう風潮。
それは、私が感じている充足感とは真逆の場所にある。
自分の性根が何を求めているのかを見つめ、知ることができれば、
そうした他力本願な心の在り方とは自然と距離が生まれる。
外の基準ではなく、自分の内側の声に従うこと。
それは、物事を、一過性ではなく、長く続けるための静かな土台になる。
もちろん、どんな物事であれ、どれほど自然体に近づいても、事あるごとに、心に少しの揺らぎは起こる。
その揺らぎにきちんと向き合い、整理して然るべき場所に落とし込む事が大切になる。
それが「当たり前」だと思っていたものに、もう一度感謝を向けることに繋がると思う。
続けることでしか体験できない、物事の本当の楽しさがある。
楽しさが揺らぎの中で目減りしたように感じる時は、必ずある。
だがそこで歩みを止め無ければ、確実に蘇る。
加えて、これまでとは違う形で現れる事が多々ある。
それは2年、3年の期間では到底得られず、それこそ10年、20年と時を重ね無ければ体感できないが、その幅も深度も確実に広く深くなる。
もちろんその間には、更に深い谷や闇の部分も確実に起こるし、もう元には戻れないと感じる場面も必ずしも来る。
それでも歩き続ければ、その場面は物語に深みを作るエッセンスに昇華される。
谷や山の意味が変わるのだ。
物語は決して終わらない。
終わらせない限り、続いていく。
本当に好きなものを見つけること。
自分が心地よいものを知ること。
そしてそれらを、恋で終わらせず、愛するまで続けてみる。
恋は“衝動と熱”で、愛は“持続と距離”だと思う、昨今です。
愛と呼べる物事が今の自分の周りにいくつもあって、本当に幸福だと思う。